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日 本 最 古 の 茶 園
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日吉大社は日本で最初に茶の種を育て 團茶が作られ、社前に茶を献じられた 神社である。
やがてこのお茶が行幸され た嵯峨天皇へも永忠大僧都によって献 じられたと伝えられる。
今日では而妙斎宗匠によって例年抹茶 が奉じられています。 |
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近江坂本の日吉神社の境内にある日吉茶園は日本の最古の茶園といわれ、
その茶園の伝承は明らかではないが、日吉大社は伝教大師最澄(767〜 822)が延暦寺を創建した時の鎮守とした神社で山王祭には古くから茶が献じられている。
かって遣唐使と共に入唐した最澄らが持帰ったと伝えられる茶種が生育し、嵯峨天皇に弘仁六年(815)最澄と同道した留学僧の大僧都永忠によって茶が献じられたと伝えられる。
この時の茶は遣唐使によってもたらされた日吉の茶園であったと想像されているが、日本で最も古い茶の飲まれた記録と考えてよい。
勿論この時に天皇に献ぜられたお茶は今日の抹茶ではなく、それ以前の團茶であります。
この唐時代の茶については陸羽(〜804頃)の書き残した『茶経』が茶に関する最古の古典であります。
これには團茶に於ける茶の製造から点て方、飲み方それに飲む道具やその生産地、そしてその効能まで非常にくわしい。
團茶は今日我々の暮らしには縁の遠いものであるが、茶の葉を蒸して後、 臼でついて団子状にして乾燥させたものである。 |
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團茶
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| 茶の新芽を蒸気でむして、臼で搗いて丸めて乾燥したものである。型に入れて干したものなど今日では様々の形のものがある。これを粉末にして湯を注いで、香料など加えて飲まれている。 |
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今日でもなお中国各地で多く飲まれていて、中国の茶を売る店では多種多様な茶が売られて興味深い。
しかしその中に抹茶はあ りません。
日本で最初に飲まれたお茶も、当時は其の後の充分な需要を満たすだけの供給が出来ませんでした。
そこで、喫茶の習慣は最初は貴族や僧侶の限られた人達の施薬として飲まれたものが、次第に風雅な飲料として、宮廷や寺院を中心に愛用された程度に留まりました。
こうして中国から唐の文化をもたらして日本に大きく及ぼした遣唐使も双方の政情によって廃止され、
次第に唐文化を同化する時代になり、国風化が進み貴族達によって平安の王朝文化の花が開きました。
その團茶の法は僧院の法会の中にわずかに形骸化して残されました。
中国も宋そして元へと時代は移っていく。 日本から又その文化を学ぼうと留学僧達が送り込まれた。
その中の一人日本臨済宗の開祖である栄西は二回目の入宋の時に当時中国で流行していた抹茶の法
を伝えたことは私たちには衆知のことである。
栄西は持ち帰った茶の実を九州の背振山に植えた。
ここで育った茶種を栄西から栂尾の明恵上人のもと に贈られ、今日の高山寺栂尾茶園はその茶種からのものであります。
抹茶の法は次第に禅院に於て、説法の間の施薬として広く飲まれるようになりました。
やがて栄西によって建保二年(1214)将軍源実朝のもとへ茶の効能を説く『喫茶養生記』と共に良薬 として茶が献じられたのである。
こうして僧堂で禅僧達に修行のかたわら飲まれた抹茶の法は次第に、 又々貴族や武士社会に流行していき、施薬とは別に遊興の世界へと発展し、闘茶を見るようになり、更
に今日の利休居士の茶の湯の世界へと発展していくのであります。 |
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※喫茶の法は最初、團茶を最澄など一連の遣唐使の僧達により唐より日本へ持ち帰りましたが、この法は永くは根付かず、その後宋の抹茶の法を栄西など留学僧達が持込み、それが今日の茶の湯の風流として日本文化に大きく影響を及ぼしましたが、その両者共に僧達の薬用の飲料としての効用で移入されたものであり、それが次第に、嗜好品として発展しました。
つまり今日風に言えば最初はいずれも健康飲料でありました。 |
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